関の山の語源になった東海道53次の宿場町
東海道53次は日本橋から京都までの江戸時代の大動脈。箱根や大井川はなじみ深いが、西に行くと縁遠く感じ勝ち。桑名の港の先は鈴鹿の山を越えて近江、京と続くが、鈴鹿峠の手前が関の宿。今の三重県亀山市。

来てみると東海道の名残を最も数多く残している宿場という事が分った。今もすぐ近くを国道1号線の大動脈が通るが、東西の追分に挟まれた旧東海道沿いには200の保存された町屋がしっかり歴史的街並みを構成し、国の保存地区指定も受けている。

大名が参勤交代で泊った本陣は今は石碑だけだったが、相当大規模だったようで、十畳以上ある部屋が何十も連なっていた。まちなみ資料館では町屋内部の昔の様子と、街並みの移り変わりの写真を長く繋ぎ合せた様子が見られ,
旅籠玉屋資料館では、かつて鶴屋、会津屋と並ぶ関の人気の宿が再現され、店の間の入口から奥の土蔵まで細長い家だった。その会津屋は今は食事処。

由緒ある建物につき女将に尋ねると、最近はテレビ和風宗家や雑誌など取り上げられ、きのうもタレントが来て撮影する人気だが、以前は苦労したそうだ。持主は次々代わり、借りて生活を支える為に調理の免許を取って食べ物を出し始め、建物も改修をして、最近落ち着いてきたという。売りのおこわとそばのセットで昼食とした。

真ん前が街の象徴のお寺、地蔵堂。

街道中程の2階からは街道の東西がよく見渡せる。ここは百六里庭・眺関亭と名付けられている。日本橋からの距離を示している。

掟や処罰などを掲げた高札場が江戸時代の宿場らしい。

ところで関宿の夏祭りに出る山車が立派で、「これ以上のものはない」という意味で使われた言葉が関の山。山車を保管する蔵が街道沿いにある。小型にした模型が近くの家で垣間見ることが出来た。自分も造っているという地元の人が話してくれたが、檜で造る製作も、維持も手間も費用もかかり、昔16あったのが、今は4つに減ったという。

東海道の宿場をこれほど大規模に残す貴重な街、関はお薦めです。

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来てみると東海道の名残を最も数多く残している宿場という事が分った。今もすぐ近くを国道1号線の大動脈が通るが、東西の追分に挟まれた旧東海道沿いには200の保存された町屋がしっかり歴史的街並みを構成し、国の保存地区指定も受けている。


大名が参勤交代で泊った本陣は今は石碑だけだったが、相当大規模だったようで、十畳以上ある部屋が何十も連なっていた。まちなみ資料館では町屋内部の昔の様子と、街並みの移り変わりの写真を長く繋ぎ合せた様子が見られ,
旅籠玉屋資料館では、かつて鶴屋、会津屋と並ぶ関の人気の宿が再現され、店の間の入口から奥の土蔵まで細長い家だった。その会津屋は今は食事処。

由緒ある建物につき女将に尋ねると、最近はテレビ和風宗家や雑誌など取り上げられ、きのうもタレントが来て撮影する人気だが、以前は苦労したそうだ。持主は次々代わり、借りて生活を支える為に調理の免許を取って食べ物を出し始め、建物も改修をして、最近落ち着いてきたという。売りのおこわとそばのセットで昼食とした。

真ん前が街の象徴のお寺、地蔵堂。

街道中程の2階からは街道の東西がよく見渡せる。ここは百六里庭・眺関亭と名付けられている。日本橋からの距離を示している。


掟や処罰などを掲げた高札場が江戸時代の宿場らしい。

ところで関宿の夏祭りに出る山車が立派で、「これ以上のものはない」という意味で使われた言葉が関の山。山車を保管する蔵が街道沿いにある。小型にした模型が近くの家で垣間見ることが出来た。自分も造っているという地元の人が話してくれたが、檜で造る製作も、維持も手間も費用もかかり、昔16あったのが、今は4つに減ったという。


東海道の宿場をこれほど大規模に残す貴重な街、関はお薦めです。

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